「HAPPY ENDie」考察③
THE GREATEST SHOW-NEN
「HAPPY ENDie」2月19日放送
ということで、リアルタイムで感じたことをここに書き記しておきます。
ネタバレがありますので、嫌だという方は自衛をお願いいたします。
自分たちのいる世界が虚構だと気が付いた5人はそこからハッピーエンドを目指して、脱出しようともがきます。
ここの演出がほんとにいい!(語彙力どこ)
ゴムひもの立体に吸い込まれ、そこから出ようともがく。
出られたと思っても、誰かが吸い込まれてしまう。
まわる世界で、やはり彼らは一人の登場人物でしかない。
その世界を支えるのが、その登場人物たちになって、いつしかゴムひもを支えているのも5人に
なっている。
虚構を回っているのも、回しているのも、5人になって、ループは終わらない。
その虚構の枠から逃げ出して、その先を5人で目指し始めれば、また一人、またひとりと“世界”に囚われていく。
これ、最後までジンタが囚われずにロングコートの男のところまで辿り着くことができたのは、ジンタがこの“枠”外の世界の存在だからですよね、きっと。
ここのジンタ以外の4人が、枠に捕まって虚構に囚われた後、本当にぞっとしました。
今まで生きていたはずの存在が一気に作り物になってしまったかのような演技。
所詮、虚構の中の人物は、虚構を作る人間の操り人形でしかないのだと、実感させられた。
一気に目から光が失われるのが、恐ろしいほどでした。
それすらも乗り越えて、ジンタはロングコートの男にたどり着く。
「書いたの、お前か」
ついに直接対決ー!!
と叫んだのは私だけではないはず・・・ですよね?!!笑
「ユウキを救いたい」
「だめだ、彼は死ぬ運命なんだ」
「それを書き換えろって言ってんだ」
「それはだめだ。これは主人公モトムとユウキが引き裂かれる話なんだ。おかしな書き換えは許されない」
おかしな書き換え、ということはこれはもはや決まったことなのかな、と。
ロングコートの男の実体験・・・?となりつつ。
じゃあ、おかしな書き換えにならずに、モトムとユウキを引き裂いて、かつユウキを救う話にしたいんだったら、殺されるのをモトムにして、ユウキと立場を入れ替えればいいんじゃ?と思ってしまった私。
そうしたらきっとユウキを救いたいジンタなんて存在は現れないわけで(もはや無茶苦茶言ってます)。
この考えは歪んでるなあ、と自分に苦笑でした。
「立ち読みくらいで殺されるなんておかしいだろ」
「俺もそう思うよ」
「人は突然いなくなる。そういうものだ」
「俺はお前を産んだ覚えはないけどね」
これはきっとロングコートの男の実体験だったんでしょう。
喪失を抱いていたのも、愛する人と幸せな日々を送っていたのも、この男。
ある日突然、愛する人を殺されて、救えなかったことを後悔して、それでもその事実を受け入れようとした。
だからこの虚構を書いた。
それでも、喪失を何度も何度も繰り返すうちに、虚構のなかでくらい、愛した人を救いたいと思ってしまった。願ってしまった。
その願いがジンタとなって現れてしまったのではないかと思います。
だからジンタはこの物語を書き替えることができた。
逆に、モトムが何度も何度もこの世界を繰り返してもユウキを救えなかったのは、きっとモトムが事実をなぞる存在だったから。
ロングコートの男の実体験の具現化した存在で、ユウキを救おうとしても救えない。
何度も何度も喪失を繰り返して、世界をやり直しても、それでもモトム一人では世界を変えられない。
ジンタ=ロングコートの男、としか考えられなかったのですが。
ジンタ=喪失を抱えたロングコートの男が夢見た幸せな世界での自分の姿で、モトム=現実世界のロングコートの男なのかなと。
モトム=ロングコートの男=ジンタで。
と考えれば、モトムがただの登場人物Aに成り下がって見ていた、ユウキがジンタの名前を呼びながら死ぬ場面でも、ユウキはずっとモトムを呼んでいたのと同じなんだなと。
いつだってユウキは愛する人の名前を呼んでいたのに、抱えているものが違うせいで、違う人の名前を呼んでいると錯覚して、ずっと犯人にジンタを殺すように依頼して、悪循環が生まれてしまっていたと思うと、なんとも言えない思いになります。
そうして、ロングコートの男から奪ったパソコンでジンタは物語を書き換えていく。
「隣にいた私は喪失を抱え、終わり続けるのだ」
ロングコートの男がいつか言っていた言葉が、ロングコートの男に言い聞かせるように響く。
終わらせるのは、喪失を受け入れられないことか。それとも、喪失を乗り越えられないことか。
幸せに生き続けるための世界で、言葉の雨が降る中を、ユウキが手を振っている。
おーい、と呼び掛けているのは誰にだろう。
同じ虚構の登場人物を呼んでいるのだろうか。
それとも、虚構の外にいるロングコートの男に、幸せになるよ、と言っているのだろうか。
暗転した舞台の上。
ロングコートの男が、ひとり。
「役が勝手に幸せになってるんじゃないよ。俺を置いて、さ」
「こっちはこれからも続くっていうのに」
ロングコートの男は書き換えられない喪失を抱えたまま現実を生きるしかない。
現実世界を書き換えることはできなくて、喪失は終わることはない。
憧れにも羨望にも似た声がどうしても耳に残っている。
ふと、これは「死の受容」なのだろうかとも考えてみたり。
大切な人の死はなかなか受容できないけれど、自分のなかで受容できるような“物語”を作って、受容する。
だからこそ、現実世界のモトムは喪失を繰り返すのに、虚構のジンタは幸せになれるような世界を作り出すことができる。
人の死や喪失を幸せだと思うことができる人はいないし、まして幸せな結末だと思うことはできないのは間違いないけれど。
それでも、その人の中で受容して、その人との思い出を懐かしみ、悼むことでその人と過ごした日々を幸せだと捉えることができるのではないだろうか。
だからこその、「HAPPY ENDie」かな、と。
というわけで、考察のような感想のようなものも、これにて終わりです!!
こんな長文をお読みくださった方、本当にありがとうございました!
みればみるほど、また次の回に話が進むほど、明らかになってすっきりすることもあれば、むしろ謎めいていくような部分もあって、最高に面白い作品でした。
今度はぜひ劇団壱劇屋さんの公演を拝見したいなあ・・・。
いや、発想も演出も面白すぎるんですもん。
ということで、お付き合いいただきました方、本当にありがとうございました!