「HAPPY ENDie」考察③
THE GREATEST SHOW-NEN
「HAPPY ENDie」2月19日放送
ということで、リアルタイムで感じたことをここに書き記しておきます。
ネタバレがありますので、嫌だという方は自衛をお願いいたします。
自分たちのいる世界が虚構だと気が付いた5人はそこからハッピーエンドを目指して、脱出しようともがきます。
ここの演出がほんとにいい!(語彙力どこ)
ゴムひもの立体に吸い込まれ、そこから出ようともがく。
出られたと思っても、誰かが吸い込まれてしまう。
まわる世界で、やはり彼らは一人の登場人物でしかない。
その世界を支えるのが、その登場人物たちになって、いつしかゴムひもを支えているのも5人に
なっている。
虚構を回っているのも、回しているのも、5人になって、ループは終わらない。
その虚構の枠から逃げ出して、その先を5人で目指し始めれば、また一人、またひとりと“世界”に囚われていく。
これ、最後までジンタが囚われずにロングコートの男のところまで辿り着くことができたのは、ジンタがこの“枠”外の世界の存在だからですよね、きっと。
ここのジンタ以外の4人が、枠に捕まって虚構に囚われた後、本当にぞっとしました。
今まで生きていたはずの存在が一気に作り物になってしまったかのような演技。
所詮、虚構の中の人物は、虚構を作る人間の操り人形でしかないのだと、実感させられた。
一気に目から光が失われるのが、恐ろしいほどでした。
それすらも乗り越えて、ジンタはロングコートの男にたどり着く。
「書いたの、お前か」
ついに直接対決ー!!
と叫んだのは私だけではないはず・・・ですよね?!!笑
「ユウキを救いたい」
「だめだ、彼は死ぬ運命なんだ」
「それを書き換えろって言ってんだ」
「それはだめだ。これは主人公モトムとユウキが引き裂かれる話なんだ。おかしな書き換えは許されない」
おかしな書き換え、ということはこれはもはや決まったことなのかな、と。
ロングコートの男の実体験・・・?となりつつ。
じゃあ、おかしな書き換えにならずに、モトムとユウキを引き裂いて、かつユウキを救う話にしたいんだったら、殺されるのをモトムにして、ユウキと立場を入れ替えればいいんじゃ?と思ってしまった私。
そうしたらきっとユウキを救いたいジンタなんて存在は現れないわけで(もはや無茶苦茶言ってます)。
この考えは歪んでるなあ、と自分に苦笑でした。
「立ち読みくらいで殺されるなんておかしいだろ」
「俺もそう思うよ」
「人は突然いなくなる。そういうものだ」
「俺はお前を産んだ覚えはないけどね」
これはきっとロングコートの男の実体験だったんでしょう。
喪失を抱いていたのも、愛する人と幸せな日々を送っていたのも、この男。
ある日突然、愛する人を殺されて、救えなかったことを後悔して、それでもその事実を受け入れようとした。
だからこの虚構を書いた。
それでも、喪失を何度も何度も繰り返すうちに、虚構のなかでくらい、愛した人を救いたいと思ってしまった。願ってしまった。
その願いがジンタとなって現れてしまったのではないかと思います。
だからジンタはこの物語を書き替えることができた。
逆に、モトムが何度も何度もこの世界を繰り返してもユウキを救えなかったのは、きっとモトムが事実をなぞる存在だったから。
ロングコートの男の実体験の具現化した存在で、ユウキを救おうとしても救えない。
何度も何度も喪失を繰り返して、世界をやり直しても、それでもモトム一人では世界を変えられない。
ジンタ=ロングコートの男、としか考えられなかったのですが。
ジンタ=喪失を抱えたロングコートの男が夢見た幸せな世界での自分の姿で、モトム=現実世界のロングコートの男なのかなと。
モトム=ロングコートの男=ジンタで。
と考えれば、モトムがただの登場人物Aに成り下がって見ていた、ユウキがジンタの名前を呼びながら死ぬ場面でも、ユウキはずっとモトムを呼んでいたのと同じなんだなと。
いつだってユウキは愛する人の名前を呼んでいたのに、抱えているものが違うせいで、違う人の名前を呼んでいると錯覚して、ずっと犯人にジンタを殺すように依頼して、悪循環が生まれてしまっていたと思うと、なんとも言えない思いになります。
そうして、ロングコートの男から奪ったパソコンでジンタは物語を書き換えていく。
「隣にいた私は喪失を抱え、終わり続けるのだ」
ロングコートの男がいつか言っていた言葉が、ロングコートの男に言い聞かせるように響く。
終わらせるのは、喪失を受け入れられないことか。それとも、喪失を乗り越えられないことか。
幸せに生き続けるための世界で、言葉の雨が降る中を、ユウキが手を振っている。
おーい、と呼び掛けているのは誰にだろう。
同じ虚構の登場人物を呼んでいるのだろうか。
それとも、虚構の外にいるロングコートの男に、幸せになるよ、と言っているのだろうか。
暗転した舞台の上。
ロングコートの男が、ひとり。
「役が勝手に幸せになってるんじゃないよ。俺を置いて、さ」
「こっちはこれからも続くっていうのに」
ロングコートの男は書き換えられない喪失を抱えたまま現実を生きるしかない。
現実世界を書き換えることはできなくて、喪失は終わることはない。
憧れにも羨望にも似た声がどうしても耳に残っている。
ふと、これは「死の受容」なのだろうかとも考えてみたり。
大切な人の死はなかなか受容できないけれど、自分のなかで受容できるような“物語”を作って、受容する。
だからこそ、現実世界のモトムは喪失を繰り返すのに、虚構のジンタは幸せになれるような世界を作り出すことができる。
人の死や喪失を幸せだと思うことができる人はいないし、まして幸せな結末だと思うことはできないのは間違いないけれど。
それでも、その人の中で受容して、その人との思い出を懐かしみ、悼むことでその人と過ごした日々を幸せだと捉えることができるのではないだろうか。
だからこその、「HAPPY ENDie」かな、と。
というわけで、考察のような感想のようなものも、これにて終わりです!!
こんな長文をお読みくださった方、本当にありがとうございました!
みればみるほど、また次の回に話が進むほど、明らかになってすっきりすることもあれば、むしろ謎めいていくような部分もあって、最高に面白い作品でした。
今度はぜひ劇団壱劇屋さんの公演を拝見したいなあ・・・。
いや、発想も演出も面白すぎるんですもん。
ということで、お付き合いいただきました方、本当にありがとうございました!
「HAPPY ENDie」考察②
THE GREATEST SHOW-NEN
「HAPPY ENDie」2月12日放送
本当に考察が楽しい作品です!
考えれば考えるほど奥が深いというか…。
ということで、リアルタイムで感じたことを次の放送が始まる前に、ここに書き記しておきます。
ネタバレがありますので、嫌だという方は自衛をお願いいたします。
とりあえず、この放送を見た感想を。
そりゃあ、ループするわ!!!
(取り乱しました)
モトムとユウキの会話。
1回目の放送では一方的に話していたモトムの会話に、ユウキの返事も聞くことができる。
これ、本当にうまいなと思ったのが、1回目の放送との印象がまったく違うこと。
1回目の放送では、モトムがこの世界でどうにかして死んでしまうユウキを救おうとしているように見えたのだけれど。
今回の会話では、モトムの存在が失われてしまうことをなんとなく感じ取ったユウキがいて。
そんなユウキを安心させるために、大丈夫と言い聞かせるっていうめちゃくちゃ切ないものになってて。
「不安になるんだよ。俺のこと忘れてどっか行ったりするなよ」
「忘れるわけないだろ。大丈夫、ずっとそばにいるから」
「でも、これは嘘になる。俺はそばにいられなくなる。そして俺の方は覚えていても、彼は俺のことを忘れてしまう」
切なすぎる…。
というか、こういう切ない、繊細な演技をする末澤さんが好きなんですよ(私情しかない)
何度やっても最期は自分ではなく、突然現れたジンタの名前を呼んで死ぬユウキ。
消えた自分の存在。
これを覆すために、モトムは犯人にジンタを殺すよう依頼をしていたわけで。
ここでジンタとモトムの差が出ている気がします。
ジンタはただただ純粋にユウキが生きられる未来を探して時間をループする。
モトムはユウキを救うことをきっかけとしながらも、消えてしまった自分の存在を取り戻し、そのために邪魔者のジンタを殺そうとしている。
この差が、世界をループさせ続けて本質を見いだせなかった原因だったら面白いなあなんて。
自分の幸福を願うか、他人の幸福を願うのか。
その些細な差が、ジンタとモトムとユウキの間には存在しているのかと思いました。
そして、モトムはどこからこのループに気がついたんでしょう。
繰り返される世界で、自分の存在が消えて。
大切な人の隣には知らない人がいて、大切な人はその名を叫んで死ぬのに。
自分はそれを見ることしかできない苦しみを抱えながら、ただの登場人物Aに成り下がる。
何度も繰り返される世界で、孤独な戦いは報われたことはなかったんだろうな。
犯人もいつの頃からか、ループに気がついていたようですが、こちらは人を殺す恐怖でそれに抗おうとする気力はないし。
モトムと犯人が協力したらなにか変わっていたのかとも思うけど、この二人は残念ながらこの状況を打開する力はないんだと思います。
やっぱり自分を殺そうとしたモトムに対しても「ありがとう」と言えるジンタのような人でなくちゃ。
繰り返され、抗えない犯人の凶行。
客観的にそれを見たとき、警察官は気が付きます。
台本通りに事が進んでいると。
そして、繰り返される世界は、何度も何度も書き直された台本の上の話であり、矛盾が生じていることに全員が気がつく。
これね、普通の人じゃ考えつかないですよね!
舞台とか小説とか。
その世界観を共有する人は、その場で世界観を把握し、共有した上で物語を楽しみますよね。
そもそも虚構を虚構とは思わない。
この舞台では、それが虚構だと、虚構の登場人物が言うわけです。
この向こうに行く、と宣言までして。
虚構が崩されたとき、妙に納得してしまいました。
同時に、虚構に生きる人物たちが「この世界は虚構だ!」とはっきりと宣言するのは、潔さもあって、もはや清々しい。
さて、2月19日放送でいよいよクライマックスですが。
ジンタと謎のロングコートの男が直接対決のようですね。
うーん、謎のロングコートの男は作家で、ジンタに随分と感情移入しているよう。
大切な人を失くしたことに絶望して、ハッピーエンドにできないんでしょうか。
ジンタと対面したら、「君は、僕だ」って死んだ目で言いそうで楽しみです(妄想)。
どんなクライマックスを迎えるのかもう待てないです!
さて、今回も長文となりました。
お付き合いくださいました方、ありがとうございました。
「HAPPY ENDie」考察①
THE GREATEST SHOW-NEN
「HAPPY ENDie」2月5日放送
「第2回公演 アリーズin Aぇ!ワールド」の考察はどうした?と思ったそこのあなた。
大変ごもっともでございます(土下座)
本当はアリーズの考察もしたいし、「1番のサンキュウ!」も考察しがいがあったのでゆっくりしたいんです!したいんですよ!!
ただ今回の「HAPPY ENDie」、2回目の放送までで謎が謎を呼んでいますし、結末を知る前に、ここぞとばかりに自分の考察(という名の妄想)を爆発させておこうかと思います笑。
結末を知ってしまったら、思考ってそこに引きずられて自由に考察できなくなってしまいますし。
ということで、リアルタイムで感じたことを次の放送が始まる前に、ここに書き記しておきます。
ネタバレがありますので、嫌だという方は自衛をお願いいたします。
とあるコンビニ。
人質をとって立てこもる犯人。人質。警察官。コンビニの店員。偶然居合わせた店員の親友。
犯人に刺された店員。犯人は謎の空間に逃げ込む。それを追いかける、警察官と店員の親友。
何故か優しいような切ないような眼差しをコンビニ店員に向ける人質。
コンビニに向かう犯人。
繰り返される悲劇。ループする世界。
とまあ、こんな世界のお話の今回。
1回目の放送の考察はあえてしませんが、見た直後の私のtwitterでの呟きがこちら。
『これはリチャ小島が救おうとしているように見せかけて、実は末澤さんが救おうとしているパターンなのか。はたまた、末澤大晴は同じ人物で二重人格とかそっちなのか。謎が謎すぎて面白い』
『あれ、時空の狭間じゃなくて精神世界?とすら思うし。あと末澤さん、いくら自分が人質にされてたからって目の前で人刺されてるのにあんなに平気な顔する?』
今思えばある程度は核心つけてたな~なんて感心しちゃいます。
本当に深読みしすぎ。考察すると本当に楽しいから妄想に歯止めがかかりません笑。
さて、それは置いておいて。
ここからが本題の第2話。
繰り返されるコンビニで立ち読みをするモトム。それを注意するユウキはやはり犯人に刺される。
「俺じゃない。こいつが立ち読みくらいでうざいこと言ってくるのが悪いんだよ!」
犯人の台詞に違和感を覚える。今回のループで立ち読みをして注意されたのはモトムのはず。
何度も繰り返す中で犯人自身も混乱し、記憶が曖昧になっているのか。
また守れなかったと嘆くジンタを「まだだ、まだチャンスはあるぞ、君!」と再び時空の狭間(?)へと導く警察官。
「わたしは行く、君はどうする?」「行くに決まってんだろ、何回でも」
そうして、警察官とジンタはまたループする世界に飛び込んだ。
「勤続3年の逮捕術はどうしたんですか?」「不調なんだ」
空間の中でユウキを見つけ、どうにかしてコンビニに行くことを阻止しようとするジンタ。
一度は納得したユウキであったが、不思議な力の前にその記憶が消えてしまっていた。
苦しむ犯人の後ろで、昏い目で犯人を見つめるモトム。
犯人に差し出される封筒とナイフ、手紙。
「休むんじゃなかった?やっぱり、来てしまうんだね、ユウキ」
モトムの慈愛に満ちた声が困惑するユウキにかけられる。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「俺はそんな言葉が聞きたくなくて、俺は、俺は、」
そして再び現れる犯人。刺されたのはジンタのはずなのに、死んだのはユウキだった。
繰り返される悲劇。変えられない結末。
「痛い、痛いよ!なあ、なんかさあ、もうずっと・・・もう、しんどいんだ」
倒れるユウキを見つめることしかできない、ジンタと警察官。
立ちすくむユウキ、モトム、犯人。
そこにやってきた黒服の男。
そうして、ユウキ、モトム、犯人、不思議な空間の男たちを無表情で刺した。
男の消えた空間にはユウキだけが立っている。
警官とジンタにとうとう捕まえられた犯人は、刑務所にいれてほしいと懇願する。
「もう嫌なんだ」
ユウキを刺した動機が矛盾していると指摘する警察官に犯人はこう話す。
「立ち読みも、依頼も両方存在している。あいつだ、俺の依頼主だ」
視線の先では、モトムが冷たい目で封筒を見つめていた。
というのがまあ、今回のお話。
さて、ここからは誰がこのループの主権者(というのは言葉違いかもしれないが)という視点で考えていきたいと思う。
黒服の男は言う。
「何事にも終わりがあり、終わりからは逃れられないが、その隣にいた私の頭では、記憶の海で馬が暴れ出す。慎ましやかな日々。学び舎でのきらめき。共に遊んだ休日。カフェテリアで飲んだコーヒー。ささやかな贈り物。馬が荒れる度、脳の皮質は波を立てる。波にのまれて終わりが続く。隣にいる私は喪失を抱え、終わり続けるのだ。」
海馬は脳の一部で、記憶や空間学習能力に関わるという。
すなわち、いつだって慎ましやかな日々、学び舎でのきらめき、共に遊んだ休日、カフェテリアで飲んだコーヒー、ささやかな贈り物、そんな記憶を思い出させる。
それがこのコンビニの事件、もしくはそれ以前にあった何らかの事件のせいで喪失にかわり、終わり続けることとなると解釈できる。
それでは、これは一体誰の記憶か。
ジンタであるとすれば、ユウキと過ごした日々がユウキがコンビニで刺されて死ぬことで終わりを迎えているのかもしれない。
モトムであるならば、ユウキと知り合いのはずなのに、忘れられている。そうして喪失を抱えたまま、その記憶を取り戻そうとしているにも関わらず、ユウキが死ぬ結末を繰り返しているのかもしれない。
ユウキだとするならば、ループする世界のなかで殺され続けることで大切な記憶を零し、喪失を抱えているのかもしれない。
そして一番引っ掛かった、モトムの台詞。
「なぜ?なぜ何度やっても君が死ぬんだ?」
「なぜ君“は”死ぬんだ?」ではなく、「なぜ君“が”死ぬんだ?」という言い方をしたのか。
つまり、犯人への依頼をしているはずのモトムは別の殺したい人がいた?
ユウキを殺したいわけではないのはすでに明らかになっているのだから、それはジンタ?
であるならば、ユウキを救い、ジンタを殺す(そこにはユウキ絡みのなんらかの理由があったのだろうが)ためにループしているのか。
そう結論づけるのは早いように思う(自分で言っといてなんだけど)。
引っ掛かる点が多すぎるのだ。
毎回、ジンタを案内するかのように、空間に行こうと誘う警察官。
(勤続3年って3年間このループを繰り返してたんじゃ?とすら思っちゃう。不調なのは、実際に犯人に迫ったのが今回が初めてだから)
黒い服の男がモトムと犯人を刺したあの空間で、最後に立っていたユウキ。
黒い服の男と同じ白い時計をするジンタ。
全てが怪しく見えてきてしまう。
私の妄想(もはや考察といえるほどの根拠もなにもないのでこう言うけれど)で、一番ありかな、と思うのは、実はジンタがこの世界をループさせているのではないかという説。
ジンタは黒い服の男と契約、もしくは同一人物であり、ユウキが殺されない世界を模索している。
そのユウキの生存のためには、犯人とモトムの排除が必須であり、だからあの黒い服の男が出てきてユウキとモトムと犯人を刺した最後に、ユウキだけは救おうとしているからユウキが立っているのかなって。
このループの主権者だと当初は思っていた犯人でさえも、モトムに操られていて。
多分、自分が主導でループを繰り返していると思っているモトムも、色々なことに左右されてユウキを救えず、さらにループする世界に振り回されている存在であり。
もしループの主導権がありそうな人がなくて、なさそうな人があるのだというのなら、実はユウキとジンタがお互いを救うためにこの世界を繰り返しているのであって、この二人が主導権を握っていたらいいなあ、という結論にたどり着きました。
ジンタ視点で描いているから、いつだってユウキは死ぬけど、ユウキ視点から見たらジンタがいつも死んでいるっていうやつ。
ユウキは記憶がないように見せているけど、実はあって、でもそれは世界をループするうちに失われていったのかとか。
考察すると尽きませんが、私自身はとっても楽しかったです!大満足!!!
ということで、2月12日放送回で明らかになるモトムの計画が本当に楽しみです!
まとまらない文章ですが、この辺で…。
いつかの私へ
大好きなV6が2021年11月1日の26周年の日を持って解散という日を迎えました。
いつかの私に、11月1日を迎えた今の気持ちを残しておきたくて思っていることを書きます。
止まったままの、グレショーの考察はどうなってるんだというのは置いておいて(絶対に考察を続けます、なんなら他の作品も考察したい。特に『一番のサンキュウ!』は絶対に書きたい)、今日はちょっとだけ気持ちを残させてください。
2021年3月12日。
この日も準夜勤務をしていて、いつもより忙しかったような覚えはあるが、遅いながらも休憩に入った。
開いたLINEに【大変、V6が解散だよ】という母のメッセージが表示されていた。
“嘘だ”と思う反面、“この時が来てしまったんだ”という納得と半ば諦めに似た気持ちだった。
その日のTwitterで私はこう呟いている。
【変わらないものなんてないことを知っていて、それでも変わらないことを期待してしまっていたことに気がつかされた】
【私は約束のないいつかを待てるほど強くないから、この決断が救いかもしれない】
【どんな道を選んでも、6人の未来が明るく輝いていますように!!】
どうして、人間は永遠がないと知っていて、永遠を望んでしまうのだろう。
そして永遠に続くと思っているそこに他の人の人生があるにも関わらず、自分主体で考えてしまうのだろう。
それは完全に私の主観なので今は置いておくとして、このつぶやきにある通り私は物分かりの良いファンだったのは間違いない。
6人が決めたのなら、と納得した。いや、納得しようとしていた。
解散の話が話題にあがれば「これでよかったんです」と笑顔を作り続けた。
ここからだ、私が大好きなV6から逃げるようになったのは。
人間は死別などで大切な人を喪うと「悲嘆」を感じる。
人間は大きな悲しみである悲嘆に直面すると受け入れるまでに「悲嘆のプロセス」を辿ることとなるのだ。
「ショック期」「喪失期」「閉じこもり期」「再生期」の4つのプロセスを辿ることとなるのだが、ここはもし読んでくださっている方がいらっしゃったら、調べていただければ幸いです。
「逃げる」ということはこのプロセスを辿っているという正常な状態ではあったものの、逃げ続けることを選択した私は次のステップに進むことができないままだった。
仕事と大学院での研究とに追われていたと言い訳することもできるのだが、実際はそれだけではない。
「V6」という存在が当たり前すぎて、存在し続けると疑わなかった。
だからミュージカルやら舞台やら、ジャニーズのグループやらJrやらを推していた。
V6にかける時間が減っていたのは紛れもない事実だから、言い訳をすることはできない。
25周年の配信ライブは希望休を貰ってまで観たし、CDやDVDは初回から通常盤まで買っていた。出演するドラマもバラエティーも、なんなら朝のワイドショーまできっちり録画していた。
それでも、車で流す音楽のV6の割合は減っていたし、観る時間は昔よりも格段に減っていた。
言い訳が長くなってしまったが、とにかく「V6がなくなることはない」と信じて疑わなかった。
とにもかくにもこうして物分かりのいいフリをした私は、いつまで経ってもV6の解散と向き合おうとしなかった。
それが変わったのは、10月の怒涛の音楽番組ラッシュに入ってからだ。
遅すぎると言われるかもしれないけれど、そこまで私はV6から目を背け続けた。
「Full Circle」を改めて聞いて、解散を実感した。
このままではまずいと思った。
このままでは、最後の時間を一緒に過ごすことができないとそう思った。
そして解散を受け入れられなかった時間を取り返すように、ここ最近のCDやDVDを改めて視聴することにした。
そして迎えた11月1日。
配信ライブの幕が上がっても、まだ解散を信じられないまま。
それはステージに立つ6人が笑顔で終えようとしていたことがあったかもしれないし、やっぱりまだ信じたくないと思っていたからかもしれない。
でも、それが違うとわかったのは「分からないだらけ」の剛くんと健くんの歌を聞いたときだった。
なぜか涙が溢れた。そして止まらなくなった。止められなかった。
それからは涙は止まって、溢れてを繰り返した。
結局何が言いたいのかと言うと、書いている間にわからなくなってしまった。
時間を無駄にした自分への怒りか、はたまた事実を受け入れたふりをした自分への嘲りか、それすらもわからない。
ただ、私の中で “V6の解散”という事実が受容されたのは事実で、そしてやっぱりどこかで諦めきれないということなのかもしれない。
最後のメンバーひとりひとりのあいさつで、泣いてもいいとも言われたし、まだまだV6を愛していいと言われた。
今日のこの景色を最後にせずに、いつかまたこの景色を見たいと言ってくれた。
もし、その“いつか”が来るかもしれないと期待してもいいと思えてしまう。
それはもしかしたらただ救済を求めているだけかもしれないが、それでもいい。
5年後でも10年後でも、20年後でも、25年後でも、26年後でも。
のんびり待っていたいと今なら思う。
そして、V6のファンになってたくさんのご縁があった。
Twitterのフォロワーさんに会って、お話しをいっぱいして、中には直接お会いした方もいらっしゃって。
今でも仲良くしてくださる方もたくさんいらっしゃることは、本当にありがたいことだと思います。
結局、やっぱり何が言いたかったのか、自分でもよくわからなくなってしまったけれど、それでもどうしても書き残しておきたかったんです。
恥ずかしいような文章で、しかも何が言いたいかもわからない。
あまりの恥ずかしさにいつか消してしまいそうな長文ですが、最後まで読んでくださった方がいらっしゃったら、感謝しかありません。
本当にありがとうございます。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
泣きすぎてすでに目蓋が腫れぼったくて、起きるのが怖いなあ笑
アリーズ inAぇ!ワールド 考察①
「第2回公演 アリーズinAぇ!ワールド」
12月26日放送 第2幕 新たなステージへ
さて、この回は最年長覚醒の回!!
もう冒頭の「最年長末澤 演技覚醒」だけで叫び声をあげたのはこの私です(大爆笑)
ということで、ここからはがっつりとネタバレが入りますので、これから見るよ、と言う方はご注意ください。
またここから話す内容はあくまで私個人の感想であり、考察です。
その点をご了承いただけましたら、幸いです。
【あらすじ】
サラリーマン二人が路上生活をしている調理男と釣り男と一緒に生活をしている。
調理男と釣り男から路上生活のいろはを学ぶ二人。
二人は気が合って一緒だったというが、色々思うところがあってハート製菓という一流企業を辞めたという。
会社は変なやつばかりで辞めた、家や会社に縛られて生きる方が不自由だと思ったから路上生活をしようと思ったと話す二人に調理男が言った。
調理男「けどな?一回だけ言うで。悪いこと言わんから戻り?」
アリマ「戻るってどこに?」
釣り男「あっち側に」
さらに新聞を拾ったらまっさきにどこを見るかという釣り男の問いかけにアリヨシは答える。
アリヨシ「求人?」
調理男「あほ、天気予報や!覚えとけよ?文字通り死活問題やぞ」
調理男から焼いている魚を見ているように言われたアリーズの前に、スーツを着たウサギが現れる。
もうこのリチャくんウサギがスタイリッシュだのなんのって!!(大声)
ウサギ「うっそー、遅刻やん!」
そのウサギは、二人の目の前の魚を取って行ってしまった。
とられた魚を取り返してくるように調理男と釣り男に言われた二人はウサギを追いかける。
そしてマンホールに落ちた二人は、自分が子どもの時のお母さんや小学生の時の担任の先生を見かける。
ではこれはタイムトンネルでタイムスリップしているのか。
しかしトランプ大統領がマスクをしている姿を見かけた。
その後で二人はシュレッダー屑の中へと落ちることとなる。
シュレッダー屑の向こうに二人は扉を見つけた。
屑をかき分けて行けば、ドアを開けばその中に小さなドアがある。
そのドアを開けば、もう一つ小さなドアがあった。
小さすぎて、入れそうにないドアを前にして、出られへんと言う二人の元にクスリ屋が現れた。
クスリ屋「出られるさ。薬買いなよ」
クスリ屋はこの会社の新入社員だろ?新入社員ならクスリ買いなよと言いながら、その顔を歪めた。
クスリ屋「新入社員なのになんだその格好は。ちゃんと上着を着な」
ぱちんと指で音を出し、上着を着せたクスリ屋は二人に色々な薬を飲ませる。
身体が大きくなる薬、気が小さくなる薬、気が大きくなる薬、その他色々な薬。
気が小さく薬を飲んだアリマが「あかん、俺ら一生ここからでられへんねや」と言ったとき、クスリ屋は励ます。
クスリ屋「大丈夫、頑張ったらなんでもできるよ」
最終的に薬で身体を縮めることができた二人。
扉の向こうに行こうとしたときに、クスリ屋がちょっと待ちな、と呼び止めた。
クスリ屋「そのドアをくぐるということは覚悟はできてんだよなあ?この世界を受け入れるということだ。一度そのドアを開いて足を踏み入れるということはその向こう側に何が待っていたとしてもそれを受け入れるということなんだ」
アリマ「このドアの向こうには何があるんですか?」
クスリ屋「見る前に飛べという言葉があるのを知っているか?ドアの向こうに何があるか、それを知らなければドアをくぐれないというであれば、お前は一生ここにいてこの狭い自分という殻に閉じこもり、」
その話が終わる前に二人はドアをくぐって行ってしまった。
〇釣り男のいう「あっち側」とは
さて、釣り男のいう「あっち側」とは?と疑問が残るわけですが、これは最後の放送まで行ってから考えようと思います。
(ところで全部の放送回の考察を書かずに、それぞれの放送回の考察を書き上げ次第ブログの記事にしてるので、もし忘れてたら教えてください)
〇新聞でまっさきに見るのは求人と答えるアリヨシ
このアリヨシの答えは、まだ本当は会社で働く気があったということの現れだったのではないか。会社で働きたい、心のどこかでそう思ってはいたけれど、会社の中の彼らの言う“変な人たち”のせいで働けなかった、と。
そして畳みかけるように釣り男は言う。
釣り男「会社に命を懸けてたか?懸けてたらこんなところに来てはないやろうけど。おんなじやで?ここも。ほんまの命懸けやし。そんな格好、すぐしてられへんようになるで」
釣り男は昔会社で命がけで働いていた会社員だったのではないか。
そしてこの今のアリマ、アリヨシにとってはとてもぐさりと刺さる言葉。
路上生活も会社も同じ。生きるために命を懸ける。
どこでも生きるために楽な道なんてないということ。
人間はどうしても楽な道を選んでしまうけれど、どんな境遇、どんな仕事であっても、生きていくためには平等に命懸けなのだと強く言われているようだ。
〇突然現れるウサギ
「不思議の国のアリス」の作者、ルイスキャロルはアリスとの対比だったと述べているそうで。
ということは、この作品内ではアリーズとの対比ということ。
同じようにスーツを着ている、アリーズとウサギ。
しかし、アリーズは緩めたネクタイにワイシャツの首元のボタンを開けているのに対し、ウサギはきっちりとネクタイを締めてワイシャツのボタンは開けてすらいない。
つまり、後の放送回でお局の窓旗さんが「会社の歯車になりきれたら」と述べるのだが、つまりウサギは会社のルールに沿って生きていて、アリーズは会社のルールに沿うことができなかったということ。
この違いがワイシャツの着方に出ていたのではないかと思う。
〇アリーズが通るタイムトンネル
これはアリーズが辿ってきた、二人の歩みなのではないだろうか。
つまり、これまで二人を形作ってきたもの。
それはお母さんの躾だったり、小学校の先生の教えだったり。
きっと大人になっても二人の考えの奥底にはこの考え方や教えが根強かったはず。
〇シュレッダー屑
これは今まで会社を辞めた人たちだと思った。
もっと詳細に言えば、“会社に不必要と判断されたもしくは会社のルールに則ることができずに辞めていった人たち”だ。
後述するお局さまの窓旗さんが言う、「会社の歯車になれなかった人たち」。
つまり、ここに落ちてきたということは、アリマ、アリヨシの二人は会社を自分から辞めた、もしくは会社に不必要と判断された人たちということになる。
さて、この二人はどちらなのだろう。
二人は前者だと思っている。
「こんな会社にはいられなかった、自分たちだけがまともだった、だから辞めた」
本当にそうなのだろうか。
二人の言う“狂った”会社の人たちには二人が自分たちの考えとは違う“狂った”人に思えなかっただろうか。
立場が変われば見方が変わるというが、これはまさにその例だ。
自分も身につまされる思いがした。
〇ドアとクスリ屋の売る薬
これがめちゃくちゃ考察が楽しいんですよ!
このクスリ屋、本当に好きすぎてしんどくて!
末澤くんがしている役というだけではなく、外見、キャラクター、話し方。全てがドストライクで!
すみません、心の声がだだもれでした。
深呼吸したので、考察を続けたいと思う(別人格に早変わり)。
このドアは社会人になること、すなわち大人になることそのものなのではないだろうか。
会社という環境で(この話は会社の話なので、あえて会社に限定して言うが)、生きていくという覚悟があるのか。
それが「扉の向こうに行くにはそれなりの覚悟がいる」というクスリ屋の問いかけた言葉の意味だと思う。
私は大人の世界は、白と黒だけでは上手く説明できないように感じている。
「清濁併せ吞む」というべきなのだろうか。
小さい時のように、善悪の判断が酷く難しいように思うのだ。
はっきりとした白と黒がない世界。目の前では白く思えていても、いつの間にか黒になっている。
そんな不確かで曖昧な世界。
後述する(はずの)窓旗さんの開いていた会議室での「狂ったお茶会」で説明される「ルールは一つではない」という話がそれを表している。
ルールは一つではない、たくさんのルールが存在していること。
一つだけのルールでは世の中上手く行かないのだと。
話が逸れたが、クスリ屋の売っていた薬はその扉の向こうに行くための魔法の薬だったのだろう。
頑張ってもなんともならないことはどうしても世の中にあって、それでもそこで生きて行かなければならないから魔法の薬を使う。
自分の考えを変えたり、相手をねじ伏せたり、ありとあらゆる方法を使って。
それを意識的にしているか、無意識かの違いはあれど、自分を変幻自在に変えて適応しているのだ。
ここでクスリ屋の「頑張ったらなんでもできるよ!」がボディブローのようにじわじわと効いてくる。
そう、なんでもできるのだ。頑張ることができれば、の話だが。
だからこそ、クスリ屋は扉の向こうに行く覚悟があるのかを問いかける。
社会のルールが飲めるのか、自分を変えることができるのか、自分が変わっていくことに耐えられるのか、と。
ハイテンションでここまで考察を書いてきましたが、言葉って難しいですね(唐突)。
自分が考えていることを言葉にするってこんなに難しいことなのかと思いました。
声にして相手と会話するのであれば、適宜補足をすることもできますが、文字はそれができないのですから。
さて、あっという間にすごい文字数(約4000文字らしいです)のものができあがっていて自分でも驚いています。
この調子で残りの分も考察できるのでしょうか・・・。
疑問ではありますが、自分が満足するためにも、たくさん考察していこうと思います。
最後になりますが、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
はじめに
はじめまして、夕月と申します。
突然ですが、本当に!気がついたら!Aぇ! groupの沼に落ちていました!!
(本当に唐突ですみません)
こんなに自分がいつ落ちたのかわからないのは初めての経験です。
大体わかるじゃないですか、きっかけって。
でも、それが本当にわからない。
いつの間にか「応援したい」「一緒に景色をみたい」と思っていたんです。
まあ、この話は長くなるので、また今度!
(話す機会がもしあれば、ゆっくりと!)
さて、本題に入りますね!(唐突)
関西ジャニーズJr.のAぇ! groupが人気劇団とコラボする「THE GREATST SHOW-NEN」を、ありがたいことに関西の正門くんファンのお友達から送っていただいて拝見しています。
いつも本当にありがとう!おかげでこっちでは絶対に観ることのできない番組をいつも拝見することができて、本当に幸せです。感謝してもしきれません!!本当にありがとう!!(突然の私信)
ジャニーズにハマった時から同時に舞台にも触れる機会が増えて、いつのまにかストレートプレイもミュージカルもたくさんの舞台を拝見してきました。
毎年、何作か拝見していましたが、このご時世。
舞台を見る機会を失ってしまっていたところに、舞台の楽しさを思い出させてくれたのが、Johnny's DREAM IsLAND 2020→2025〜大好きなこの街から〜の「僕らAぇ! groupがbrakeしそうですねん?!」の配信でした。
本っ当に楽しかった!!
舞台の楽しさを思い出しただけではなく、初めて舞台の上に立つ6人を見た瞬間でした。
あの時の6人をまた見たいと思いつつも、きっといつか、遠い先のことになるのだろうと思っていた、そんな時!!
「THE GREATST SHOW-NEN」で人気劇団とコラボするというじゃないですか!!
神様っているんだな、と!(大袈裟)
そして、ありがたいことに送っていただいて拝見しているんですが、第1回も色々言いたいことや考察があるけど・・・
とにかく!第2回公演「アリーズin Aぇワールド」が考察が捗って仕方ないんです!!
ということで、その考察を備忘録として置いておきたいがためだけに、このブログを書き始めました!!!(前置きが長い)
もし読んでいただけましたら、幸いです。
ネタバレ、妄想がすごいので本当にご注意くださいね!
それでは!